昭和四十一年四月十六日 夜の御理解
妙賀栄える、富貴繁昌と言う。繁昌のおかげをいわゆる富貴繁昌のおかげを頂くというその妙賀と、どういう妙賀を持って富貴繁昌に繋がるおかげになるだろうかと。 これはあのお野菜の蕗、茗荷というのがございますね。まあ、それなんですけれども、私が頂いておる字は妙賀とは賀こびの妙と書いて、富貴とは富貴ですね貴い富と書いて貴い富と。値打ちのある富と有難い、いうなら富のおかげというのはあの、まず妙賀が先だと、賀こびの妙、往々にして信心をさせて頂いておりますと【ほんに?】神様ちゃ有難い、信心ちゃ有難いというて、成程有難いそれは悪い事じゃないのですけれども、その有難いと言いながらその富貴のおかげが伴うといない人が沢山ある事です。有難い有難い、もう、それこそ有難やさんでその自分でけはいいです。有難い有難いでそれこそそれに、富貴というものが伴うていなかったら、そりゃ本当の妙賀じゃないという事。
本当の賀こびじゃないという事。そこで私共の信心を【少し?】検討に検討をさせて貰うておかげを頂かなければならん。
本当の意味での妙賀、自己陶酔というのがありますよね。自己満足なんです。そういう例えば、陶酔けいに入るという事のようですけれども、只、自己だけが自分だけが有難い有難いと言うてそれが本当のおかげに伴うていない、繋がっていない。
おかげであっては本当のものじゃない。私、只今今日の御大祭、今私、ざっとお届け帳をくくらせて頂きましたら七百なんぼお届けがあっておった。お届けがですからこれにはお届けにもれておる参拝者も随分あったことであろうとこう、思うのでございますけれども、そういうふうにして、椛目に御縁を頂いて、いわば信心に縁を頂いていく人達が、いよいよ信心の喜び妙賀に触れ、そして一人一人が富貴繁昌のおかげを頂いてまいります為に、良い信心をさせて頂きますようにと言うお願いをさせて頂いたら、あすこに菊政宗の金樽が四つこう乗っておりますですね。あの御三方の一台を頂くんですね。いわゆるその、そういう妙賀のおかげを頂くという事はですね、やはり菊政宗的な有難き、勿体なき、恐れ多きでなからなければならないという事だと私は思うと。菊とは、これは私共の信心の椛目のシンボルといわれておる。
菊の紋を私のここの神愛会の紋は菊に八ツ波の御紋章をこうあしらってある紋ですね。政宗とね、というのはやはりその最高の切れ味とされております。同じ切れてもそれはきくのらまさ的な切れものがやっらりあるという事です。
名刀に違いないのですけれども、それはどことはなしに、いわゆる人をあやめる為の刃物になってしまうというう事。ね、
政宗の名刀というのは、人を切る為ではなくて、自己を守為のものだといわれておりますね。そこにはです、いわゆるこの政宗、正しい、いわゆる正念場という事を申しますね。例えば何にでも正念場という事を申しますが、信心の正念場はそこなんです。正しいあり方、真の人間としてのあり方、そこを願う。そこを求めて行くとこの信心、ね。正しい信心、うんなら正しい信心すると、なかなか難しいのでてすけれども、どこまでも天地の道理に合うたところの信心ね。私自身がいよいよ本当のものになりたいという願いのもとに進められる信心。私は正しい信心からしか喜ひの妙がというのもは生まれて来ない。成程私が正しくなるという事は、それは神様の目からご覧になれば、いつまでたってどうという事はないのですけれども、正しい信心を本気で身につけていこうというその意欲なんですね。本当の信心を頂きたいという私は、願いを持たせて頂くという事。
しかもそれに向かって精進して行くという事。只、おかげさえ頂きゃえ-。切れさえすりゃよかといのはなくてです、どこまでも政宗の名刀のような、自分の心を守るといういつも我と和賀心の中で拝みたい、拝めれるようて私にならせて頂くという事を願いとするところの信心だという事。
そこに神様が妙がを贈って下さらんはずはない。賀こびの妙を贈って下さらんはずはない。茗荷は繁昌心。妙が栄える、あるいは茗荷というのは、非常にこう繁殖力の多いらしいですね。妙賀とそこに富貴繁昌のおかげが伴うところの繁昌でならなければ本当のおかげではないと。いよいよ今日の御大祭を境にお互いが様々な今朝から頂きますように、一つの発心、それがどこに焦点がおかれるかというと、どこに信心の正念場を置くかというと、どこまでも私が真の信心修行しゃなからなければいけないと、いわゆる富貴繁昌のおかげさえ頂きゃええというのではなくてですね、それでは本当の事ではない。賀こびの妙があって、そして富貴繁昌のげという事になる、繋がるおかげでなからなければならないというふうに、改めて思わせて頂くのでございますが、なかなか、菊政宗的な、いうなら、真実神様がお喜び下さる喜びが私共の方に通うてくるところの喜こびというような、その信心がなかなか頂けんのでございますけれども、そこを願いとする意欲に神様が贈って下さる信心の賀こびね、そこを楽しみに、いよいよ信心のもう本当に、だから一つの基礎というものを本気でわからせてもろうて基礎作りの信心を本気でさせて頂いて、そこから打ち立てられて行くところの、正しい信心を身につけていかなければならんと思うのです。
そしてやはり神様の願いとされるところのもの、私共の願いとするところのね、富貴繁昌に繋がっておらなければならない事は勿論の事ですね。
どうぞ。